「乱読のセレンディピティ」と「乱談のセレンディピティ」

題名に「セレンディピティ」とついているので、買って見た。実際には、買ってから1年半ほど積ん読状態になってみて、やっと読了した。

 

「乱読のセレンディピティ」は、セレンディピティが云々の前に読書論について、いろいろと語られている。気になったところをいくつか引用。

P.14 自分の目で選んで、自分のカネで買ってきた本は、自分にとって、タダで借り出してきた本より、ずっと重い意味をもっている。図書館の好みで入れた本をタダで借りてくるのは自己責任の度合が少ない。もちろん、図書館の本でも感動できる、自分のためにもなる。しかし、自分の目で選んで買ってきて、読んでみて、しまった、と思うことの方が重い読書をしたことになる。
本を選ぶのが、意外に大きな意味をもっている。人からもらった本がダメなのは、その選択ができないからであり、図書館の本を読むのがおもしろくないのも、いくらか他力本願的なところがあるからである。

P.87 こういう乱読本は読むものに、化学的影響を与える。全体としてはおもしろくなくても、部分的に化学反応をおこして熱くなる。発見のチャンスがある。
専門の本をいくら読んでも、知識は増すけれども、心をゆさぶられるような感動はまずない、といってよい。それに対して、何気なく読んだ本につよく動かされるということもある。学校で勉強する教科書に感心したということは少ないが、かくれ読みした本から忘れられない感銘をうけることはありうる。

確かに自分で買った本ともらった本や紹介された本を比べると、自分で買った本の方が読むし、読むにしても、気負いなく読める。小説みたいなエンターテイメント性が高いものは、借りてきてもよむけれど、専門性の高い本はあまり読まないかも。読むにしても、必要なところをコピーして、読んでいる方が多い。

それから、自分の得意分野じゃない本などを読んでいるときに、ハッとシナプスが繋がるようなフレーズや文に出会うこともある。これ自体はセレンディピティとは違うようだ。

乱読のセレンディピティは、本をいろいろな分野の本を読み漁ることで拓かれる悟りのような発見のようなものとして位置付けられている。それがセレンディピティなわけなので、それ自体は悪くないが、本を読んでいても、インプットばかりでアウトプットの動きではないので、セレンディピティに遭遇することは少ないようだ。ハッと気がつくことは多いけれど、セレンディピティのような感じではないのが本当のところか。

次に、「乱談のセレンディピティ」だが、「乱読」の一部でも重複しているので、どちらか一方を読むだけでも、いいのかもしれない。「乱読」だけでは、インプットばかりなので、セレンディピティに必要なアウトプットを出すためには、分野の違う人との良質な乱談(雑談や対談等)がよいとのこと。

P.44 ただ人が集まればいいというわけのものではない。細かい問題の ”専門家” だけで集まってみても、とても、乱談にはならない。なんとなく、競争心がはたらき、遠慮もあって、本当に関心のあることは避けて、当たり障りのないトピックをつつき合う、というようなことになりやすい。大学などで同じ学科の同僚が相手の雑談が、すこしもおもしろくないのは、互いに近すぎるのである。
互いにわからないところの多い人間が集まると、妙な警戒心はないから、存分におしゃべりができる。
それがほかの人たちにさまざまな刺激になり、それに触発されて、思ったことを言う。それがまたほかの人を動かし、話して座がにぎやかになる。自分でもそれまで考えたことのないことが、この乱談のスクランブルで飛び出すことも少なくない。自分ながら、ひどく”おもしろい”と思う。乱談でないと経験することのできない”おもしろさ”である。
この”おもしろさ”を大切にしないといけない。一時的なこととして忘れてしまうことが多いようだが、人生において、もっとも、価値のある思いであるということもできる。
その”おもしろさ”は、発見ではないが、その前ぶれなのである。そのもう一歩先、もうすこし掘り下げたところに”発見”がある。ただのおもしろさとして忘れてしまうのはもったいないのである。
乱談のたのしさは、この”前セレンディピティ”ともいうべき”おもしろさ”をふんだんに与えてくれることにある。時を忘れた、というのは、その魔力にかかっていたことの証拠である。
そう考えると、セレンディピティはもっとも多く、乱談から生まれるという一見奇妙なことばが生きてくる。

他人と話し、視点の違う刺激を受けることで、セレンディピティが起きやすくなるというもの。ただ、セレンディピティのためには、思考がニュートラルな状態、相手に否定的だったり対抗したりしようとしないような状態でないといけない。

今の自分の環境は、こういう話がしやすい環境なので、大切なところだろう。(前は大学を出てからそういうところはなかったので)

あと、セレンディピティと全く関係ないが、個人的に面白いところがあったので、引用。講義や講演で笑えるかどうかって、結局、こういうこと。

P.81 授業中の笑いをはじめのうちは不真面目のように思っていたが、先の三大学の比較などを見ても、頭がよくないと、よくはたらかないと、笑えない笑いがあることに気づいた。
すっかり全部わかった話では笑えない。そうかと言って、まるでわからなくても、もちろん笑ったりできない。半分よりすこし多く、六、七割方わかったときに人は笑うようになっているらしい。
新しいことにはおどろくが、笑うことはできない。よくはわからぬが、わかったような気持ちになると、緊張が解けて、破顔一笑となる。つまり、笑いは半理解、半発見のサインである。笑いは創造的エネルギーを含んでいるが、笑って発散すると、あとに残るものが少ない。すぐ忘れてしまうのが笑いである。

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