電脳のレリギオ

読了。気になっていたので、読んで見た。面白くよめたが、主張のレリギオの部分(というか概念)がわかりにくい。元々は宗教用語であるものを別の次元で適用しているからだろうか。ただ、別の表現(再接続)だとしっくりこないから、レリギオという概念が必要なのだろう。

ここから下でまとめというか気になった部分を抜粋。

P.24 レリギオとはつまり、日々の生活のなかで受容するさまざまな情報の断片をつなぎとめて、自らのアイデンティティと自分の周りの現実との整合性を再構築し続ける力のことを指します。なのでレリギオを考えることは、これから本書を通して詳しく見ていくように、「自分がいきている世界はどのような世界なのか」という把握と「自分とはこういう存在である」という構築を、情報の摂取と表現のループ構造のなかで捉えることが必要だと考えています。僕たちが人工知能社会の中においても人間を起点とし続けるためには、読むことと書くこと双方のバランスを取り戻す必要があるのです。

P.36 「持続する企業の条件」が列挙されており、その一つに「ペインキラー」という項目があります。
 要は「未解決の問題」が存在することを証拠となるデータやその他の情報をもとに立証し、自分の企業が提示する「問題の解決策」を説得力をもって説明する、ということです。この論理構造は、工学分野の論文の書き方と相似していますが、アカデミックな工学論文では問題解決の対象がシステムそのものであることが多いのに対して、セコイアキャピタルが例示する事業計画では現実の社会で生きている生身の人間の「苦痛」=ペインを対象とするというところが大きく異なる点です。

P.38 有名な哲学者や社会学者が情報技術社会を言葉で評論したり批判したりする書籍はたくさん存在します。僕もそういう本を学生の時分からたくさん読んできましたが、次第に現に情報社会に実装された技術やアイデアに対して言葉のみでフィードバックを返すことが困難になりはじめていると思うようになりました。
 その最大の理由の一つは、アイデアが実装されるスピードのほうが、抽象的な言葉による批評よりも遥かに早くなってきているからだと僕は考えています。もう一つの理由は、情報技術においては「つくってみて初めてわかること」が多くある、という経験則です。

P.46 デザイン・フィクションとは、「架空の物語の中において十分説得力のある架空の技術のプロトタイプである」というスターリングによる定義と、それをベースにタネンバウムが提唱する「デザインの可能な未来系を説明するために物語の手法を活用する」方法という定義があります。もう少し噛み砕いて言い換えてみると、「まだ存在しない技術を、生身の人間が登場するシナリオの中で十分なリアリティもって描写する」という風に表現できるでしょう。

P.46 デザイン・フィクションの概念は工学系研究者が議論しているだけあって、十分なリアリティを持たせるためには技術と社会の関係に関する知識が必要となる手法であり、実践する敷居は決して低くないとは思います。しかし、その思考法は、登場人物が架空の物語の中で何を考えたり感じたりするのかという人間の感性を前景化するという点において、情報技術を人間の側により戻す、すぐれて批判的な方法論であるとも考えるのです。

P.114 メディア(media)とはラテン語のメディウム(medium)の複数形であることに気付きます。
 メディウムとは「媒介」や「媒質」を意味する言葉です。芸術の領域ではメディウムとは作品を構成する支持体(絵画でいえばキャンバス地など、フランス語ではsupportシュポールとも)や素材(絵画でいえば絵具)、より広義には道具(絵画でいば筆の種類など)も刺します。

P.132 「利用者が目にする情報があらかじめアルゴリズムによって決定されている」状況は、インターネットの黎明期に標榜あれていた「情報への自由なアクセス」という理念とはほど遠い状況だと言えるでしょう。この問題の核心は、だからといって僕たちがそうしたアルゴリズムに依拠しているサービスやアプリの利用を止めれば良い、という結論には至らないという点です。
 僕たちは一度便利で快適な、僕たち自身の労力を省いてくれる道具を体験してしまうと、なかなかそれを止めることができません。これは、いくらあるサービスに大きな欠陥があるとわかっていても、代替案を考えたり、別のサービスに乗り換えたりすることが簡単ではないという厄介な問題だともいえます。

P.138 高尚な理念を社会実験するためには、同時に利便性や効率性といった「商品価値」を提供することが必要な時代に生きているのです。言い換えれば、理念はスケーラブル、つまり大規模に拡大できるようにデザインする必要があります。

P.155 人間の心(意識と無意識が脳と身体を通して複合している状態をイメージしていますが、それは古来から人間が魂と呼んできたものも含むかもしれません)とは、心の輪郭がつくられる動き、つまり自分を構成するさまざまな断片を現実世界と連動させて再接続(レリギオ)しつづけるプロセスそのものです。

P.157 自分が「良い」と思うもの、価値として認めていることが現実の一部を形成していると感じられる時、人はレリギオを体感するのではないでしょうか。であれば、情報社会の不和を調停するには、相互のレリギオが互換性を持てるようにコミュニケーションをデザインしていく必要があると言えるでしょう。
 本書ではレリギオという考え方を、本来「宗教」(religion)が担ってきた、個人のアイデンティティが結像することを助け、個々人のつながりである社会システムの作動を支えてきた機能を、特定の儀礼的宗教に特権化することなく、あくまで世俗的に考えるための概念として提案しました。

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