今週の週刊少年ジャンプで、ワールドトリガーの連載が再開された。
急に休載がきまってから、もう長いことと思っていたら、たったの2年だった。もっと長い休載だと思っていた、その間にジャンプの主力が終わったりしていたので、なんか随分と昔に感じていたようだ。ジャンプ+で休載前の4話分をよんで、復習し、連載に備えた。やっぱり面白い。(リリエンタールも面白い)
本当に再開されてよかった。悩ましいのは、週刊じゃなくて、別に移籍することか。さて、買うかどうするか。そこが悩み所。
今週の週刊少年ジャンプで、ワールドトリガーの連載が再開された。
急に休載がきまってから、もう長いことと思っていたら、たったの2年だった。もっと長い休載だと思っていた、その間にジャンプの主力が終わったりしていたので、なんか随分と昔に感じていたようだ。ジャンプ+で休載前の4話分をよんで、復習し、連載に備えた。やっぱり面白い。(リリエンタールも面白い)
本当に再開されてよかった。悩ましいのは、週刊じゃなくて、別に移籍することか。さて、買うかどうするか。そこが悩み所。
読了。気になっていたので、読んで見た。面白くよめたが、主張のレリギオの部分(というか概念)がわかりにくい。元々は宗教用語であるものを別の次元で適用しているからだろうか。ただ、別の表現(再接続)だとしっくりこないから、レリギオという概念が必要なのだろう。
ここから下でまとめというか気になった部分を抜粋。
P.24 レリギオとはつまり、日々の生活のなかで受容するさまざまな情報の断片をつなぎとめて、自らのアイデンティティと自分の周りの現実との整合性を再構築し続ける力のことを指します。なのでレリギオを考えることは、これから本書を通して詳しく見ていくように、「自分がいきている世界はどのような世界なのか」という把握と「自分とはこういう存在である」という構築を、情報の摂取と表現のループ構造のなかで捉えることが必要だと考えています。僕たちが人工知能社会の中においても人間を起点とし続けるためには、読むことと書くこと双方のバランスを取り戻す必要があるのです。
P.36 「持続する企業の条件」が列挙されており、その一つに「ペインキラー」という項目があります。
要は「未解決の問題」が存在することを証拠となるデータやその他の情報をもとに立証し、自分の企業が提示する「問題の解決策」を説得力をもって説明する、ということです。この論理構造は、工学分野の論文の書き方と相似していますが、アカデミックな工学論文では問題解決の対象がシステムそのものであることが多いのに対して、セコイアキャピタルが例示する事業計画では現実の社会で生きている生身の人間の「苦痛」=ペインを対象とするというところが大きく異なる点です。
P.38 有名な哲学者や社会学者が情報技術社会を言葉で評論したり批判したりする書籍はたくさん存在します。僕もそういう本を学生の時分からたくさん読んできましたが、次第に現に情報社会に実装された技術やアイデアに対して言葉のみでフィードバックを返すことが困難になりはじめていると思うようになりました。
その最大の理由の一つは、アイデアが実装されるスピードのほうが、抽象的な言葉による批評よりも遥かに早くなってきているからだと僕は考えています。もう一つの理由は、情報技術においては「つくってみて初めてわかること」が多くある、という経験則です。
P.46 デザイン・フィクションとは、「架空の物語の中において十分説得力のある架空の技術のプロトタイプである」というスターリングによる定義と、それをベースにタネンバウムが提唱する「デザインの可能な未来系を説明するために物語の手法を活用する」方法という定義があります。もう少し噛み砕いて言い換えてみると、「まだ存在しない技術を、生身の人間が登場するシナリオの中で十分なリアリティもって描写する」という風に表現できるでしょう。
P.46 デザイン・フィクションの概念は工学系研究者が議論しているだけあって、十分なリアリティを持たせるためには技術と社会の関係に関する知識が必要となる手法であり、実践する敷居は決して低くないとは思います。しかし、その思考法は、登場人物が架空の物語の中で何を考えたり感じたりするのかという人間の感性を前景化するという点において、情報技術を人間の側により戻す、すぐれて批判的な方法論であるとも考えるのです。
P.114 メディア(media)とはラテン語のメディウム(medium)の複数形であることに気付きます。
メディウムとは「媒介」や「媒質」を意味する言葉です。芸術の領域ではメディウムとは作品を構成する支持体(絵画でいえばキャンバス地など、フランス語ではsupportシュポールとも)や素材(絵画でいえば絵具)、より広義には道具(絵画でいば筆の種類など)も刺します。
P.132 「利用者が目にする情報があらかじめアルゴリズムによって決定されている」状況は、インターネットの黎明期に標榜あれていた「情報への自由なアクセス」という理念とはほど遠い状況だと言えるでしょう。この問題の核心は、だからといって僕たちがそうしたアルゴリズムに依拠しているサービスやアプリの利用を止めれば良い、という結論には至らないという点です。
僕たちは一度便利で快適な、僕たち自身の労力を省いてくれる道具を体験してしまうと、なかなかそれを止めることができません。これは、いくらあるサービスに大きな欠陥があるとわかっていても、代替案を考えたり、別のサービスに乗り換えたりすることが簡単ではないという厄介な問題だともいえます。
P.138 高尚な理念を社会実験するためには、同時に利便性や効率性といった「商品価値」を提供することが必要な時代に生きているのです。言い換えれば、理念はスケーラブル、つまり大規模に拡大できるようにデザインする必要があります。
P.155 人間の心(意識と無意識が脳と身体を通して複合している状態をイメージしていますが、それは古来から人間が魂と呼んできたものも含むかもしれません)とは、心の輪郭がつくられる動き、つまり自分を構成するさまざまな断片を現実世界と連動させて再接続(レリギオ)しつづけるプロセスそのものです。
P.157 自分が「良い」と思うもの、価値として認めていることが現実の一部を形成していると感じられる時、人はレリギオを体感するのではないでしょうか。であれば、情報社会の不和を調停するには、相互のレリギオが互換性を持てるようにコミュニケーションをデザインしていく必要があると言えるでしょう。
本書ではレリギオという考え方を、本来「宗教」(religion)が担ってきた、個人のアイデンティティが結像することを助け、個々人のつながりである社会システムの作動を支えてきた機能を、特定の儀礼的宗教に特権化することなく、あくまで世俗的に考えるための概念として提案しました。
読了。悪くはないが、自分には合わなかった(今の時点で求めているものと違うというだけなのかもしれないが)。
自分に合わなかったので、結果的にダラダラと読むことになったが、Chapter5を読めばよく、Chapter5を読む前段として、Chapter1を読むというあたりか。それで感覚は掴めるので、そのあとに間のChapterを読めばよかったのかもしれない。
「エンジニアリング組織論」なのかどうかはわからないが、技術系のベンチャーとか新しい組織には参考になるかも。結局、「エンジニアリング組織論」はなんなのかよくわからなかった。
木根さんの1人でキネマ4巻目は、ちょっとブッ飛びかたが足りなくて物足りなかったけれど、5巻目ブッ飛んでいて面白い。やっぱり、周りはほっといて語りたいことだけを語る。それに苦悩する、って言うのがよいのだ。
何度も読んでて思ったんだが、レオンをちゃんとみたことないや。あと何だかんだでTV放送番の映画はいい。作中にもあるけど、CMが入ることによるテンポ感がいい。DVDとの間違い探しも楽しいし、あれはあれでいいものだ。劇場版、ディレクターズカット版、完全版、いろいろと出ているやつはどれを見ようか迷う。特に拘りが無かったりするので、どれでも良いというのが悩むもと。
それから、アメコミ映画が好きには耳が痛い正統派映画の議論。面白ければいいのだ。人によって感性はちがうのだから、面白いと思うものが一番。なので、争うだけ無駄。過去、ガンダムシリーズで学んだ。そう言うものだ。
ちょっと前だけど、積ん読になっていた「シェアしたがる心理」を読み終えた。読み始めてしまうと、面白いのでサクサク読み進められた。今は、リンクよりもスクショでの共有が多いというのは実感も含めて同意。どうしてもURLだとニュースサイトだと消えていたりするので、スクショが安心。ほかは、まったくもって実感はないけれど、ビデオメッセージの共有。街中でビデオ通話している外国人は多く見かけるけれど、学生もビデオ利用が多いとは。触れ合わない世代だと、まったくもって未知な感じだ。
それで、「シェアしたがる心理」で気になったところを引用。
P.14 現代では、誰もがシェアするような瞬間を探しながら生きているといっても過言ではないのだ。
P.15 「ググるからタグるへ」は特別に大切なキーワードという位置付けだ。
P.15 情報行動のかたちがいわゆる検索エンジンで探すことだけでなく、ハッシュタグをユーザー同士でつけてシェアしたコンテンツをSNSの中で探すように変化していることを示している。ハッシュタグをつけてコンテンツをSNSの中で探すように変化していることを占めしている。ハッシュタグをつけてコンテンツをシェアすること、そして「手繰る」ように情報を集めていくことという二つの言葉をかけた造語が「タグる」。SNSにおけるシェア文化を考えるうえで欠かせない視点となる。
P.15 いわゆる「バズ/バイラルコンテンツ(それはパブリッシャーやブランドの発信する記事だったり、広告的なコンテンツだったりを指す)」というものは、本書で中心的に扱うテーマではない。ここで目指されているのは、ユーザーが発信するもの=シェアされるものがいかにして広まり、それが価値あるものとして受け取られていくことになるのかという一連のプロセスの解明である。なお、いわゆるパブリッシャーやブランドが発信したコンテンツがユーザーによって広げられていくこと(フェイスブック(Facebook)における「シェア」やツイッター(Twitter)における「リツイート」)は、再シェア(Re-Share)と呼ばれ区別されている。
P.22 かつては、「特別なイベントの記録」であった写真や動画は、いまや「感情や状況を人と共有するコミュニケーションの道具」になっている
P.31 スマートフォンの代名詞ともなっているiPhoneは、歴史上もっとも速く世界中に普及した工業製品であったのだ。スマートフォンは私たちの生活を急速に変えていったような感覚を持つが、それはこのようなデータ上でも明確に立証されている。
P.35 そうしたスマホの普及や、それに付随するカメラの技術的スペックの向上、アプリの充実といった情報テクノロジー側の発展と、感覚的で手軽なビジュアル要素を活用しSNSでシェアしたいというユーザーニーズと相関的に共進化していく構造の中で活性化したものと考えられる。
P.36 ビジュアルコミュニケーションは短期的に収束しないようなトレンドとして定義できる
P.46 2014〜2015年にかけては、インスタグラムが利用率を一気に上げていった点も特筆に値する。このような時代の流れの中で、ミクシィはいわば日記文化を根付かせたSNSの嚆矢的存在であるが、使われるサービスとしてはよりビジュアルコミュニケーション方面の色彩が鮮明化していったことが分かる。ただし、これは乗り換えというよりも使い分けという視点で捉えることをここでは推奨しておきたい。
また、この時期に起こっていたこととして見逃せないのが、スマートフォンの普及率の上昇である総務省「情報通信白書」のデータに依拠してみると、若年層ではこの時期にスマホ保有率が6割を超えていったが、そこに先ほどのサービス利用のトレンド変化がちょうど符合する。まさに、コミュニケーションを図るためのデバイスが、ラップトップ/デスクトップからスマホに移行していった分岐点であったと捉えられる。P.57 動画の作りやすさ、いいね!の押しやすさ(ポジティブな評価をしやすい仕組み)などユーザー自身がコンテンツを投稿するためのサービス設計が巧みになされていることがポイントである。動画コミュニケーションの機能を提供するアプリは、ユーザーからの投稿をいかに促すかが重要である。
P.60 日常の中の見過ごされがちな楽しさや美しさをすくいとること、何気なく続いていってしまう日常の中で素敵だと信じられるものを自分から見つけ出していくこと、日々出会うさまざまなものに意味を見出すこと、そしてそれをきっかけとした自分の気持ちを写真に託すということそのような繊細な感性と想像力の持ち主がこの分野を駆動していった。ビジュアルコミュニケーションにはそのような下地がある。
P.61 最近の社会学の研究によれば日本の若者は未来に対しては悲観的であり、それゆえに現代への幸福感や満足感を高く持っているのだという。本稿では深入りすることができないが、「いま」へのフォーカスとこのようなビジュアルコミュニケーション文化とは密接に絡み合っているのだ。
P.88 SNS映えといっても、単純に「他の人に自慢できるような投稿ができればよい」とか「差を付けられるような投稿ができればよい」といった理解は本質をとらえ損ねてしまうかもしれないということだ。
P.89 「バブル的」と「ミレニアム的」の違いを一文であらわせば、バブル的なアピールは高級料理店に行ったり、高級なホテルに行ったときの写真をシェアし、滅多に人ができないことをしていることへのいいね!がつくことになるが、ミレニアム的なアピールはその写真そのものの素敵さやそれを撮影するに至った体験をしたユーザーへの賛美の姿勢が評価のポイントとなる。お金がかかることや特別なメンバーシップが必要なことといったエクスクルーシブな要件というよりも、多くの人が共感できるような「楽しそう」「美しい」「健康的である」・・・といった価値軸に根差したものが受け入れられやすい。例えばあまり原価をかけていない手作りのお弁当でも、それが丁寧で綺麗に写真におさまっていればいいね!は大量につくだろう。一方で、高級なレストランに行って写真を撮ったとしても、写真のクオリティがイマイチであればミレニアム的基準では評価されない。
P.124 ハッシュタグによって「関心でつながる」ことが可能になり、ロケーションタグによって「場所でつながる」ことが可能になり、メンションによって「人でつながる」ことが可能になったこのアップデートは、インスタグラムのこれまでの強みを、さらに写真だけでなく動画を軸にしたコンテンツのネットワークへ拡張しようとする動きだと筆者は捉えておろい、それゆえにこそ見逃せない動きだと考える。
P.125 「ピボット」で、位置情報をもとにしたチェックインアプリだったBurbnから写真共有という機能にフォーカスしてよりライトなものへ変身して現在のインスタグラムが生まれた。しかし、いま再び位置情報のシェアを促すような機能を生み出している。だがそこに不思議はなく、この先祖返りはある種の必然でもある。「シェアしたがる心理」において、解像度の高い体験をリアリティを持って伝えることは必須の要件であるからだ。
P.127 親ともつながっているフェイスブックでは変な写真をアップできない、自分たちだけでコミュニケーションできる空間がほしいという若者のインサイトに立脚している。スナップチャットのオバケのようなアイコンが示唆するように、写真や動画を送っても「すぐに消える」から大丈夫というコンセプトが支持されている。SNSは世代と共に持ち上がり効果があることなどを含めて、注目しておくべき理由はそろっていた。
P.146 「消える」「盛る」「ライブ」・・・こうした特性を持つユーザー像を簡潔ながら描き出すとすれば、(1)短く残らない動画を好んでつくり消費し、(2)自分や体験を盛ってコンテンツ化しつつ、(3)ライブでいまのことにフォーカスして発信しているというイメージになるこうしたユーザーは確かに最近増えているようだ。
P.146 先取り的に結論を述べれば、「消える」「盛る」「ライブ」はいずれもユーザーの情報発信を後押しする性質を持つ。この章は、「生活者のメディア化」がいかに進行するのかということの現時点でのスケッチである。
P.149 メールやメッセンジャーでのやりとりがスクショ(スクリーンショット)されて広まってしまうなどのリスクが知られるようになり、「消える=残らない」ことの価値が意識され始めた一つのきっかけであった。特に若年層にとっては、自分が発信したものが「残らない」ことこそが、そのサービスをアクティブに使用する十分な理由たり得るともいうこと。
P.162 写真や動画を思い浮かべると、ビジュアルコミュニケーションは「撮影すること」「シェアすること」「保存すること」をすぐに想起するが、それに加えて実は「加工すること」の比重がとても大きい。
P.163 加工して写真や動画をより魅力的に見せることを「盛る」と表現する。「盛る」はビジュアルコミュニケーションにおける最も大切な概念の一つだ。盛ることとシェアすることが一体となってこうしたコミュニケーション空間をドライブさせている。
「盛る」が求められる背景には、ビジュアルのコミュニケーションは文字よりも一気に消費できて見比べるという行為がつねになされるので、アテンションを獲得するためにもスタイルを確立しなければならないということがある。P.172 現代の女の子たちは、人に見せるためにデフォルメすることを「盛る」と呼んでいるが、それは美人画にも通じる日本の文化だと見なせる。さらに昔の美人画のモデルは、スポンサーがいる特別な職業の女性やお金持ちの娘などに限られていた一方で、今はスポンサーのいない普通の女の子たちが盛って実際より良い姿になり、メディアの上で不特製多数から注目されることが日常茶飯事となった。それはテクノロジーの革新が推進した動きであり、こういった「盛る文化」を大衆化したテクノロジーを「シンデレラテクノロジー」と定義したという。
シンデレラテクノロジーとして注目すべきは、「ソーシャルステージ技術」「セルフィーマシン技術」「プラスチックコスメ技術」の3つ。「ソーシャルステージ技術」とは、誰でも不特定多数から注目される可能性を与えたインターネット技術で、特にSNSの貢献が大きい。これは私たちもここまでの議論で確認してきた。2つ目の「セルフィーマシン技術」とは、コンピュータ上でバーチャルに、実際よりも良い姿になれるようにした画像処理技術。プリクラやスマートフォンのアプリによって普及している。そして3つ目の「プラスチックコスメ技術」とは、まるで画像処理のように、リアルにも良い姿に変わることのできるプラスチック整形技術。P.199 自分が発信したものはいつでもエディットできるという感覚に慣れた世代にとっては、一方的にコミュニケーションが接続され、しかもそこでのやりとりは自分の意図しないかたちで伝わってしまうリスクが、エディットする余地すらないままに伴われてしまう電話は恐ろしいものに感じられるのだろう。
P.210 あふれる情報を自分の納得いく形で収集できていると思う人はそう多くないはずで、情報量が指数関数的に増大し続ける私たちの社会のペイン(解決されることが望ましい悩み・苦痛)に対するペインキラー(そのような悩みや苦痛を解決するもの)をいかに創造するかという課題は、ポータルサイト、RSS、アグリゲーションサイト、まとめサイトやキュレーションメディア・・・といった効率的に情報を届けるための手段が数々生まれてきたものの、いまだに未解決のまま摘み残されているように思われる。
P.211 一日の限られた時間の中で、最適化された情報をいかに得るかという視点はより重要性を増し続けており、ツイッターやインスタグラムの検索機能を使ってポストを探すようになっているのは、ユーザーの合理的な選択の結果でもある。そして、そのようなツール自身もユーザーに検索することを促すような仕組みを備えているということも反面では指摘されうる。人とつながり合い、その近況をシェアし合うことに留まらず、自分のほしい情報を探す場となっているし、発信するユーザーの増加がそれを後押ししている。
P.220 スクショで保存が約3割、そしてスクショでシェアが18.1%である反面で、リンクをコピーしてシェアが11.3%となっている。いまやスマホユーザーは気に入った情報があれば、「リンクのコピペ」ではなく「スクショしてシェア」するものなのだ。私たちはスクショして撮ったものをSNS上でさらにシェアしていくようになっており、情報シェアの形もスマホデバイスに合ったかたちへと変化してきている。
P.222 若年層は頻度が高くオフラインでのシェアを行なっていることが分かる。私たちはシェアボタンを押して再シェアすることだけに限らない、多様なシェアのかたちを日々実践していると言える。筆者自身も日常的にそうしたことをよくやるので、自分事としても腑に落ちる。そのようなオフラインでのシェアが広がっていることの帰結は、計測しきれない情報の拡散というものが背後に広がっており、それが現代のシェア文化の一端を、さらに言えば「あの人と直接会ったときにこれを見せたい」というシェアしたがる心理を抜きがたく構成しているということのように思われる。
P.232 検索エンジンはページ単位のネットワークに立脚し、SNSは体験単位/ポスト単位のネットワークに立脚するということが挙げられる。ページをスクロールしていくというよりは、スマホの画面内で一目でわかることを有益と捉えるユーザーも多いだろう。スマホというデバイスで情報活動を行う私たちにとって、SNSでのポストは最適な情報の粒度であるという観測が成り立ちそうだ。
P.339 好奇心を内在的にそこにあるものと捉えるのではなく、情報のインプットとアウトプットを継続的に繰り返すことを通じて創発していくような、そのようなプロセスの果てに事後的に見出されるものと扱うのはどうか。そんな流体的なコンセプトとして捉えてみることで、個そのものをソリッドな存在として扱うのを回避してみる方向性はないだろうか。
P.340 ドミニク・チェンさんの著作『電脳のレリギオ』における、「表現と摂取」というキーワードが大切な意味を持つと思う。この表現と摂取は、情報の並列化が高速で行われるこの現代において、正しく好奇心を持ち続けること、それを保ち続けることが持つ意義を提供してくれる。
P.349 カメラを撮るものだけでなく「見る」ものとしても活用するというニュアンスが込められているようだ。これまでのカメラの「撮る」機能は私たちの記憶をより強化するものだったが、これからのカメラは、画像認識技術を活用したアプリケーションと一体化することで、私たちの視覚をさらに強化するような「見る」ことの領域へと拡張される。
P.354 テクノロジーに応じて体験のシェアはよりリアルに、解像度高く、臨場感を伴うようになっていく。そして、私たちはそうしたものに頼ってコミュニケーションを行うようになっていくのは間違いない。
P.354 筆者の仮説では、解像度の高いものへと人々が一斉に移動すると捉えるのは少々テクノロジー寄り過ぎる視点とも思われるのだ。5-1でも言及したジョン・バージャーの議論から参照すべきは、ビジュアルイメージにおいては解像度の低さこそが憧れを生み出す側面が間違いなくなるということが。これは先述の「ほのめかし」の現象とも深く関わっている。解像度の低さという「読み取れなさ」に、逆に人は想像力を備給して自分なりの解釈を重ねる。そして、それは実は高度なコミュニケーションの実践に他ならないということをも意味していた。もちろん、VR/ARのような新たな情報コミュニケーションのかたちはこれまでにないシェアの形式を普及させていく。しかしそれ一辺倒になるわけではなく、現在のようなタイプのやりとりも依然として残り、そして併存していくことになるだろう。テクノロジー側のロジックとユーザー側の受容とは、別のベクトルで動いていく。それは噛み合った歯車のようにカップリングすることもあれば、そうでないこともある。ユーザーリサーチの意義がいつまでも薄れないのはこのような意味合いがあるためなのだ。
P.360 最近の研究では、「ソーシャルの失敗」という概念が提唱されている。つまり、いかにまだそこに生まれていない(=その欠如状態がソーシャルの失敗と呼ばれる)、成功していないつながりのかたちを生み出すか?それが、サービス提供者側にとっての競争リソースになるという指摘だ。私たちはつながりが過剰な時代に生きている。しかし、それと同時にまだないつながりへの期待を抱いている。
P.361 ペレッティが言うようにシェアこそが現代における主要なつながりの契機なのだとすれば、私たちの中にある「シェアしたがる心理」はそのようなつながりへの志向によって支えられていると表現できそうだ。そして、そうであるならば、来るべきつながりのかたちへの希求は、同様にしてまだ見ぬユーザー達のシェアしたがる心理とその実践を未来に準備していることに他ならないのだ。
映画公開時から、面白いと話題になっていたけれど、見たのは今日のテレビ放送が初。めちゃくちゃ面白かった。
一人取り残されてから、ある資材を使ってジャガイモ畑を作ってみたり、16進数で文字コードを使って地球からのメッセージを送られたり。16進数でコードをコンピュータに叩き込んで見たり。(16進数で書き換えといえば、昔のアクションリプレイを思い出す。あのときはよくわからず、やっていたことの方が多いけど)。順調な滑りだしかと思えば、いきなり吹っ飛んで畑全滅とかハラハラドキドキ。そしてハリウッド映画らしくトラブルが相次ぐ。ほんと面白い。最後はアイアンマンっぽいことをやっていたし。ただ、最後のところは個人的にはF91の「バーニアひとつ」で探しにいくほうが頭をよぎったけれど。
オデッセイ、とても楽しい映画でした。とても興奮した。
題名に「セレンディピティ」とついているので、買って見た。実際には、買ってから1年半ほど積ん読状態になってみて、やっと読了した。
「乱読のセレンディピティ」は、セレンディピティが云々の前に読書論について、いろいろと語られている。気になったところをいくつか引用。
P.14 自分の目で選んで、自分のカネで買ってきた本は、自分にとって、タダで借り出してきた本より、ずっと重い意味をもっている。図書館の好みで入れた本をタダで借りてくるのは自己責任の度合が少ない。もちろん、図書館の本でも感動できる、自分のためにもなる。しかし、自分の目で選んで買ってきて、読んでみて、しまった、と思うことの方が重い読書をしたことになる。
本を選ぶのが、意外に大きな意味をもっている。人からもらった本がダメなのは、その選択ができないからであり、図書館の本を読むのがおもしろくないのも、いくらか他力本願的なところがあるからである。P.87 こういう乱読本は読むものに、化学的影響を与える。全体としてはおもしろくなくても、部分的に化学反応をおこして熱くなる。発見のチャンスがある。
専門の本をいくら読んでも、知識は増すけれども、心をゆさぶられるような感動はまずない、といってよい。それに対して、何気なく読んだ本につよく動かされるということもある。学校で勉強する教科書に感心したということは少ないが、かくれ読みした本から忘れられない感銘をうけることはありうる。
確かに自分で買った本ともらった本や紹介された本を比べると、自分で買った本の方が読むし、読むにしても、気負いなく読める。小説みたいなエンターテイメント性が高いものは、借りてきてもよむけれど、専門性の高い本はあまり読まないかも。読むにしても、必要なところをコピーして、読んでいる方が多い。
それから、自分の得意分野じゃない本などを読んでいるときに、ハッとシナプスが繋がるようなフレーズや文に出会うこともある。これ自体はセレンディピティとは違うようだ。
乱読のセレンディピティは、本をいろいろな分野の本を読み漁ることで拓かれる悟りのような発見のようなものとして位置付けられている。それがセレンディピティなわけなので、それ自体は悪くないが、本を読んでいても、インプットばかりでアウトプットの動きではないので、セレンディピティに遭遇することは少ないようだ。ハッと気がつくことは多いけれど、セレンディピティのような感じではないのが本当のところか。
次に、「乱談のセレンディピティ」だが、「乱読」の一部でも重複しているので、どちらか一方を読むだけでも、いいのかもしれない。「乱読」だけでは、インプットばかりなので、セレンディピティに必要なアウトプットを出すためには、分野の違う人との良質な乱談(雑談や対談等)がよいとのこと。
P.44 ただ人が集まればいいというわけのものではない。細かい問題の ”専門家” だけで集まってみても、とても、乱談にはならない。なんとなく、競争心がはたらき、遠慮もあって、本当に関心のあることは避けて、当たり障りのないトピックをつつき合う、というようなことになりやすい。大学などで同じ学科の同僚が相手の雑談が、すこしもおもしろくないのは、互いに近すぎるのである。
互いにわからないところの多い人間が集まると、妙な警戒心はないから、存分におしゃべりができる。
それがほかの人たちにさまざまな刺激になり、それに触発されて、思ったことを言う。それがまたほかの人を動かし、話して座がにぎやかになる。自分でもそれまで考えたことのないことが、この乱談のスクランブルで飛び出すことも少なくない。自分ながら、ひどく”おもしろい”と思う。乱談でないと経験することのできない”おもしろさ”である。
この”おもしろさ”を大切にしないといけない。一時的なこととして忘れてしまうことが多いようだが、人生において、もっとも、価値のある思いであるということもできる。
その”おもしろさ”は、発見ではないが、その前ぶれなのである。そのもう一歩先、もうすこし掘り下げたところに”発見”がある。ただのおもしろさとして忘れてしまうのはもったいないのである。
乱談のたのしさは、この”前セレンディピティ”ともいうべき”おもしろさ”をふんだんに与えてくれることにある。時を忘れた、というのは、その魔力にかかっていたことの証拠である。
そう考えると、セレンディピティはもっとも多く、乱談から生まれるという一見奇妙なことばが生きてくる。他人と話し、視点の違う刺激を受けることで、セレンディピティが起きやすくなるというもの。ただ、セレンディピティのためには、思考がニュートラルな状態、相手に否定的だったり対抗したりしようとしないような状態でないといけない。
今の自分の環境は、こういう話がしやすい環境なので、大切なところだろう。(前は大学を出てからそういうところはなかったので)
あと、セレンディピティと全く関係ないが、個人的に面白いところがあったので、引用。講義や講演で笑えるかどうかって、結局、こういうこと。
P.81 授業中の笑いをはじめのうちは不真面目のように思っていたが、先の三大学の比較などを見ても、頭がよくないと、よくはたらかないと、笑えない笑いがあることに気づいた。
すっかり全部わかった話では笑えない。そうかと言って、まるでわからなくても、もちろん笑ったりできない。半分よりすこし多く、六、七割方わかったときに人は笑うようになっているらしい。
新しいことにはおどろくが、笑うことはできない。よくはわからぬが、わかったような気持ちになると、緊張が解けて、破顔一笑となる。つまり、笑いは半理解、半発見のサインである。笑いは創造的エネルギーを含んでいるが、笑って発散すると、あとに残るものが少ない。すぐ忘れてしまうのが笑いである。
![]() | ラララ 6巻 (デジタル版ヤングガンガンコミックス) 金田一蓮十郎 スクウェア・エニックス 2017-09-13 by G-Tools |
ここ半年くらいで気に入っている漫画。ほのぼのなんだけど、さきが気になるというか。キャラがいいのかな、ついつい読んでしまう。なんていったら、いいんだろう、とにかく面白い。ダメな専業主夫がいい味だしているんだろうな、きっと。