読了:時間とテクノロジー

読了。とても面白い内容だった。本のタイトルの通り、時間とテクノロジーが主体の内容だった。

時間は、そもそも時間の概念や過去、現在、未来について。時間の概念は、その生活圏というかコミュニティによって異なるということ。今だけでなんとか生活をできるコミュニティでは、過去も未来もなく、それを表す概念すら無いということ。日本で生活していると、時間や歴史というものが当たり前なので、過去も未来も概念として存在しない部族がいるということは、新しい発見だ。時間の流れがないということは、神話などの見たことのない偶像もない、だけど自然から感じられる精霊のような概念はあると。体感できるものだけが事実であり、それ以外は理解できないと。これは、面白くて、見たこともないことを、聞いて信じてしまうと、現代社会だと、フェイクニュースや詐欺にかかる。実際に体感していないものを信じられるような現代の生活様式だから、そういうものが生まれるのだろう。

テクノロジーは、いろいろだ。AIだったり、没入感だったり、ナッジだったり。AIやセンサーにより機器の自動最適化が行われると、何も意識せずにいろいろなことができるけれど、没入感はなくなる。機械と一体になっているような感じは確かにしない。iPhoneだと自動でいい見た目の写真が撮れる、写真の構図で個性は出るが色味などは差が出ない。海外のスマホのAIカメラを試してみたことがあるが、気持ち悪いほど、最適化されたセッティングになる。センサーの問題で苦手なシチュエーションはあるが、綺麗に撮れる。ただ個人的には、写真が気持ち悪い。綺麗なんだけど、感性に合わないというか、綺麗だがのっぺりとしていると言うか味がない。AIにより自動化されているので、使いこなす余地が残されていないからなんだ、ということを再認識させられた。本の中にもあるが「面倒な手間こそが、クール。その感覚は、実のところカセットに限らず、二十一世紀の文化のさまざまな局面で浮上してきているように感じます。」ということ。便利な世の中では、あえて手間のかかる製品を選ぶことがクールなんだと思う。

それから、テクノロジーの続きとしては、ナッジの部分。様々なセンサー技術や行動経済学などの発達により、よりナッジが進化しているということ。AIで行動を分析することで、ナッジを行い、人を誘導することができるようになっている。ただ、その誘導された結果が正しいかどうかはAIには判断がつけられない(知性がない)ので、人間が判断していかなければならないということ。そして、ナッジされているとしても、あからさまな誘導ではなく、さりげない誘導のため「人がナッジされていることに気がつかない」、それが問題だということ。これから先は、誘導の透明性というかAIの分析結果の透明性が求められていく、ということ。

あと、本文の最後の方で気になったところ。

P.354 インターネットの並列的な行為が散漫に分断しているように見えるのは、私たちがこれらの行為を時系列で捉えているからです。SNSや映像や文章といった事象に対する並列的な行為を空間的に捉え直してみると、そこには散漫な分断はありません。そうではなく、世界に無数に存在する事象や関係のどのあたりの位置に自分がつなぎ留められ、自分自身から見える世界はどのような空間になっているのかを三次元的に感じるようなテクノロジーが出てきたらどうなるか。そのあかつきには、今この瞬間の感覚は、これらの事象や他者との関係の総体であるということを直感として認識できるようになるでしょう。

時間とテクノロジー P.354

確かに今の検索結果はリストなので、散漫のように見えている。もっと空間的な表現で表示できたならば、認識も変わるのかもしれない。3Dモデルのように、表示されて、グリグリと回転できるような見た目になったら、別の発見が生まれるのかもしれない。ただ、現在の人の感じかただと、気持ち悪くてついていけないような気がする。それこそ、電脳化みたいなことにより、テラリウムの中で活動するような捉え方ができるようになったときに、新しい革新になるのかも、と思う。

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